被災語りで矛盾があり炎上した菅原彩加さん、防災関係のゼミに入っていた



 菅原彩加、という名前に見覚えがある人は多いだろう。2015年、東日本大震災から4年の追悼式で壮絶な被災体験を語った少女である。メディアに大きく取り上げられたが、それが災いして過去の被災体験やツイッターが漁られ、矛盾などが発覚し大炎上してしまった。その時点で慶應義塾大学(SFC)に入学予定であることも割れていたのだが、これといった目撃情報はなく、大学に行っているのかどうか不明だった。

 ふと思い出し、「菅原彩加 SFC」でググるとあっさり1ページ目にSFCのゼミが出てきた。

 

大木聖子研究室

http://bosai.sfc.keio.ac.jp/about/

 

ご丁寧に顔写真まで載せているHP、テーマは「防災」のようである。防災に興味がある学生なら炎上のことを知っていそうなものだが、だれからも突っ込まれていないのだろうか。

 

 炎上時の矛盾発言を最後に貼っておく。

「大好きだよ」瓦礫に母残し4年 19歳が誓った言葉:朝日新聞デジタル

私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。
あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。
しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。
その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。
右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。
母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。

 

特進1年の菅原さん、日下さんがダボス会議に参加

「これは津波だ。大変、逃げなきゃ」と思い、母の手を引き階段を降りようとした時、「バキバキッ、ガシャン」という音と共に家は壊れ、私たち家族5人は大きな波に飲まれました。

 何が何だかわからなくて、痛くて冷たくて「もう死ぬんだ」ということが私の頭でぐるぐる駆け巡りました。「ギシ、ガチャガチャガチャ」。
しばらくの間流されて、私はがれきの山に埋もれ、止まりました。力をふりしぼり、がれきをかき分け出て行くと約20メートルくらいの高さのがれきの山の上にいました。
しーんと静まり返り、一言で言えば、“黒い海”という感じでした。そのとき、自分の足下から「ゔ—、ゔ—」とうなり声のようなものが聞こえました。
足下のがれきを少しよけてみると私の母の姿がありました。くぎが刺さり木が刺さり、足は折れ、変わり果てた母の姿。
右足が挟まって抜けず、一生懸命がれきをよけようと頑張りましたが、私一人ではどうにもならない程の重さ、大きさでした。
母のことを助けたいが、このままここにいたらまた流されて死んでしまう。“助けるか”“逃げるか”。私は自分の命を選びました。今思い出しても涙が止まらない選択です。
最後その場を離れる時、母に何度も「ありがとう」「大好きだよ」と伝えました。「行かないで」という母を置いてきたことは本当につらかったし、もっともっと伝えたいこともたくさんあったし、これ以上辛いことは、もう一生ないのではないかなと思います。
その後、私は泳いで小学校へと渡り一夜を明かしました。

http://www.beyond-tomorrow.org/pdf/summer_davos_2011.pdf

 菅原 彩加(仙台育英学園高等学校 1 年生)
 津波によって母、祖母が亡くなり、曾祖母は未だ行方不明。自らも津波に流され負傷し、二晩、自宅屋根の上で救助を待った。 

http://bosai.sfc.keio.ac.jp/about/